top of page

2000年高橋真梨子プロジェクト

2000年という1000年単位の区切りのミレニアムな年。でも日本では、どちらかといえば、1999年から2000年に変わるその数字的な変化と「大予言」そして西暦2000年問題で、漸く軌道に乗って来たIT戦略が崩れてしまうのではないかという不安が先行していた時である。

というよりも、まだついこの前という感じなのだが。

真梨子さんの前年のソロデビュー20周年を受け、川上貴光氏が「高橋真梨子 とびらを開けて」を出版したのが3月上旬である。

当時、ヘンリーさんと真梨子さんが、「書きたいという人はいるのだけれど誰も書けない」と言われるほど真梨子さんのことは書き辛い領域でもあった。

ファンとしても、真梨子さんのファンクラブができても確かに昔のことは聖域であり、特にあの失恋の出来事については触れないでそっとしておくことでもあった。出版された内容には、さまざまな真梨子さんのソロデビュー前からの軌跡が書かれていた。

だから、このことを指して「とびら」といっているとも理解できよう。

でも、2021年の今思えば、その「扉」は、真梨子さんのお母様への想いの扉である。

お母様は、真梨子さんに歌の道を残した。

そのために、あえて母として、そして人の倫からそれて汚れても、娘に強く生きる道を与えた方だ。

そして、真梨子さん自身は、そのことに抵抗し反発していた。そしてお母様を野辺送りした後、母を許せなかった自分自身そのものが許せなかった。

素直に感謝ができなかった自分。

まず肩の力を抜く。

それが「とびらを開け」ることであった。

正直なところ、後半部分で筆者の川上氏は、取材側ではなく、向こう側の存在になっている。

そして、これ以降真梨子さんについての氏の文章を見たことがない。高橋真梨子さんという存在はそういう存在なのか。

***************************

だから、私が書いている。

このホームページは、私が感じたことをそのまま書いている。

そして、不思議なことに、真梨子さんが好きな曲や大切にしたい曲、実は真梨子さん自身のストライクゾーンの曲が、私のゾーンに近い。

また、舞台照明の藤原監督の演出も、自然に体感できるようになってしまった。

​ある意味、私はメッセンジャーでありレポーターである。

そんなミレニアムな総括は、高橋真梨子2000年プロジェクトを自然発生的にも、またビクターエンタテイメントの営業戦略的にも意味のあることであった。

ちなみに、この戦略のタイトル名は、後述のトークショーで発せられた司会者の一言から確認している。

まず、3/29にBEST盤である <the best>がリリースされた。これを機に、銀座山野楽器の階段では、真梨子さんの秘蔵写真が大きなパネルにいれて展示された。そして、下に掲載しているように、その写真をもとにした通常のポスター4枚分よりさらに大きなB0サイズ大のポスターが、山手線の各駅の全ておいて掲示された。

4/8には、川上氏もまじえた、ベストアルバムリリース記念と出版記念のトークイベントが、山野楽器のホールで催された。

この日、朝7時にてまりの関東応援団メンバーが8名集合し、当日の入場整理券をもらうために並んだ。午後からのトークショーなのに、それまで4-5時間ほど銀座でオフ会を先に開いて、トークショーに参加。

真梨子さんまで5mの距離。

川上氏も今回のmuseeの楽曲はいい、とプロモーション盤を聴いてべた褒めであった。真梨子さんもヘンリーさんも、高橋真梨子というジャンルを作るということを熱く語られた。「近くにいても遠くショー」というのが川上氏のギャグである。

thebest2 (1).jpg
2000.3.23 VICL-60552~3

そして、5/24にアルバム「musee」が発売される。

「倖せのかたち」は、またドラマの主題歌として採用された。

そして、この時の写真は、2001年リリースの「MARIKO in the box」に特別アルバムの付録として収納された。そして、ボーナストラックは、コンサート音源からのCDであった。

MARIKO in the box
​まさしく、ある意味、ソロ20周年の「フレンズまつり」から始まり、大きなひとつのくくりで総括されたミレニアムであったと私は体感している。
bottom of page