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CONCERTのとらえ方
真梨子さんのキャリア48年間を、たとえ20年以上真梨子さんのことを書き続けていようとも、ひとりのファンでしかない私がまとめてしまうのは大変僭越なことである。
しかし、それを書くことは私に与えられた課題でもある。
今回は、あえて右のように5つのブロックに分けてみた。もちろん、あくまでも私の感覚である。
よく、タレントの人生の浮き沈みを取り上げる番組で、好調期と人気が低迷している期間とを折れ線グラフで表現することがある。
これは、極めて、日本人的な感覚である。時間がたてば、努力は報われる、必ず成功する、そして人生谷あり山ありだ、という古来からの教えが影響しているのだろう。
しかし、考えてもらいたい。低迷期は本当に不幸なのだろうか? 進歩していないのだろうか?
私は、折れ線グラフ的な生き方よりも、人としてどうなのか、生きるとはどういうことなのかを常に問い続ける生き方や有様(ありよう)に、心惹かれる。
数字で評価される直線的な生き方で走って来たからかもしれない。それと対峙する円環的な生き方。それは、直線的な成果で測る生き方から脱却した、外への拡大と内なる原点回帰へのバランス感覚あふれる生き方でもある。
まさに、真梨子さんのコンサートがこの有様(ありよう)に感じられて仕方ない。
それは、図のように、まず常に中芯軸がしっかりとしているスタンスの明確な音楽活動である。そして、真梨子さんが表現する世界観に常に問いかけて、外へ拡大していった経緯がある。同時に、命を削りながら、自分自身への問いかけと自らの内面の使命と対峙して苦悩する時があった。
別の視点から述べると、その内面の葛藤にもバランス感覚がある。まず、「日本語の歌詞を大切に歌っていきたい」「心象風景を描きたい」という真梨子さんのとても素朴で純粋な個人的・主観的な欲求がある。そしてこれと同時に、人の生き方のひたむきさ、苦しみから立ち上がろうとする前向きさという人のあり方、つまり実は誰でも感動してしまうような客観的な心理も存在する。真梨子さんの世界では、相まった絶妙なバランスがあり、それは意図せずに自然にとられて表現されてきたのである。つまり、その感覚を、高橋真梨子というアーティストは、多くの「愛」のシーンを描くことで綴って来た。
だから、高橋真梨子は「愛の表現者」なのである。
たまたま、原点への問いかけが広瀬まり子さんの体調不良やお母様の野辺送りと重なってしまったこともあった。
また、「高橋真梨子というジャンル」を確実に広げてきたのは、オリジナルアルバムとカバーアルバムの絶妙なバランス感覚が奏功している面があったからだとも言える。
真梨子さんは、ブロックの①②の黄金期にもかかわらず、「たかはしまりこ」名義で「紗」をリリースするなど、本当の自分自身の歌を究め続けてきた。
もちろん、オリジナルアルバムがしっかりとしているからこそのカバーアルバムの位置づけである。ここが一般的なカバーアルバムのリリースとは全く違う。
そして、究極的に、Mari Coversというセルフカバーに至った。2019年のコンサートがとても素晴らしかったのは、世界的なアーティストが、自分自身の原点に回帰したというところにある。
まさに、真梨子さんの世界の深遠さが表現されたのだと思う。
立体的に円環が広がるイメージは、「漂流者へ」の螺旋階段を想像させる。それは、真梨子さんが高橋真梨子であることを証明するアルバム「Dear」のラストの曲にふさわしい。そんなことを考えながら、各ブロックに進んでみたい。
(2020/07/14記載*2021/09/22改訂)
⑤2022
our Days -Last Date-
④2014-2021
Adultica - our Days
③2001-2013
MARIKO in the box
- Premium40
②1990-2000
FANTASIA - musee
①1979-1989
ひとりあるき - PRETEND